被災した人々と共に生きる
「気仙沼線沿線、とくに志津川町民による鉄道敷設の陳情は明治三〇年頃から始まっており、悲願八十年と言われる。なにしろ三陸地方は津浪が多く、とくに湾口がラッパ状に開いている志津川町では津浪のたびに交通が途絶えて食糧が不足し、鉄道への願いは一層切実だったという。」――宮脇俊三『時刻表2万キロ』(1978年)第14章気仙沼線開通の日より引用。
(※宮城県志津川町は2005年10月、歌津町と合併し、南三陸町となる)
この写真は、私が初めてJR気仙沼線(前谷地―気仙沼72.8km)に乗った2005年11月、志津川到着間近の下り列車内で撮影したものです。前掲書において、「陸前戸倉を発車すると、右手に志津川湾が現われ、線路は高い位置からリアス式海岸の景勝を見下ろすようになる。車内に喚声があがる。」と描写された風景の一端です。
いま私たちは、同じ場所の景色を、違った形で毎日見つめています。かつて三陸沿岸を辿った旅の思い出にある情景が、3月11日を境に、どこも直視するに堪えない光景に変わってしまいました。被災された幾万もの人々にかける言葉など見当たりません。
同じく宮脇俊三の『線路のない時刻表』(1986年)によれば、「この沿岸は……津波に襲われれば、直接の被害はもとより、交通が不便であるため、救援物資や食糧の搬入ができず、被害をさらに大きくしてきた」と書かれています。そうさせないために、自分ができること、しなければならないことは何か――。
いまはただ、手の届かないところに在る皆さんの、気持ちを気持ちで抱きしめてあげることしかできません。皆さんが生きることは、私たちが生きること。どうか1つでも多くの命が明日に繋がり、そして未来へと続きますように。
(第434号)
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コメント
私も、昨年、旅行に行った思い出のある風景が違う姿になってしまったのを見て、涙が出ました。
あの日は忘れられない日になりますね。
投稿: aiai | 2011年3月23日 (水) 18時55分
aiaiさん、こんんちは。aiaiさんも、あちらに行かれたことがあるのですね。
旅の思い出の場所でさえこうも辛い気持ちになるのですから、そこで生活をしていた人や、家族を亡くされ、また未だ行方を捜しておられる人たちの艱難たるや想像が及びません。
まだ今日を生きるのが精一杯の彼らに、再建、復興、といった言葉が重くのしかかっていないか、心配です。
投稿: 鉄まんアトム | 2011年3月25日 (金) 10時59分