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命綱となったローカルバス

 「陸中海岸の宮古以南は典型的なリアス式海岸で、大小無数の半島と溺れ谷の湾とが交互に並んでいる。そのうち、いちばん大きい半島が宮古に近い重茂(おもえ)半島で、ずんぐりした陸塊を太平洋に向って突き出している。」――宮脇俊三『ローカルバスの終点へ』(1989年)より引用。

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 前号に引き続いて、宮脇俊三作品から、3・11の被災地を辿ってみたいと思います。
 前掲書には、冒頭の引用で書き出される「川代(かわしろ)」の篇があります。そこでは、宮古駅前から津軽石を経て、重茂半島の集落である、白浜、重茂、姉吉(あねよし)、千鶏(ちけい)、石浜、そして川代に至る「岩手県北バス」運行の路線バスを取り上げています。

 この路線バス、前掲書の上梓から20年以上経った今日でも存続していることを知りました。3月23日付の河北新報で、「宮古駅前発川代行きの路線バス。千鶏から石浜にさしかかったところで地震に遭い、避難してきた住民を乗せて高台の定置網置き場へ避難し、津波の被害を免れた」と報じられたのです。

 同記事によると、「11日の津波で半島の太平洋側の集落から北に通じる橋が崩落。山田町へ抜ける南側の道路も決壊し、姉吉、千鶏、石浜、川代の4集落は孤立状態となった。無線機を積んだ消防のポンプ車も津波をかぶって使用不能になり、外部への連絡手段を完全に失った」と書かれています。
 さらに記事では、地元の宮古市消防団第25分団の要請により、立ち往生した路線バスを現地災害対策本部として使用し、バス備え付けの無線で外部と連絡を取り合ったことについて、次のように報じています。
 「分団は「バスの無線を外部への連絡に使わせてほしい」とバスの運転手に要請。快諾した岩手県北バスの宮古営業所は半島の別の待機所にいたバスに“中継局”になるよう連絡、他のポンプ車の無線を経由して市消防本部に情報を伝えた。
 50人乗りのバスは分団の「南地区災害対策本部」になり、安否確認や物資不足、死傷者数、被災状況などを本部へ送り続けた。車内は電気が付き、暖房もあることから、けが人の収容場所としても利用。13日に海上自衛隊が小型ボートで石浜に到着するまで、バスは住民の命綱となった。」
――河北新報社KOLNET岩手のニュース「立ち往生、路線バスの無線 孤立集落の声届ける」より引用。

          *          *          *

 話を宮脇作品に戻します。
 この作品で興味深いのは、バス乗車記だけに留まらず、過去の津波惨禍についても取材のうえ記述されているところです。川代行きバスに乗り込んだ宮脇が書き残した文章から、いくつかを拾い上げてみたいと思います。以下、引用始め。

 「バスはサケの遡行する重茂川に沿う。…(中略)…あたりはスギやアカマツが鬱蒼と茂り、人家もなく、深山を行く思いがする。本州最東端の魹(とど)ヶ崎へと突き出た半島の基部を横断しているのである。
 峠を越えて下りにかかると、姉吉に停車
…(中略)…姉吉の集落は海岸寄りの離れたところにあるので、バス停付近には何もない。下車した生徒たちが集落への道を下って行く。
 姉吉は陸中海岸のうちでも特に津波の災害の大きかったところで、明治二九年と昭和八年の大津波では全滅に近い被害を受けた。
…(後略)…

 …(前略)…姉吉で下車。集落への道を下る。…(中略)…一五分ばかり下ると姉吉の集落に入る。地図によれば、標高は約六〇メートルで、浜までは一キロ以上ある。こんな不便な場所に家が集まっているのは、言うまでもなく津浪を避けたからである。」

 「姉吉集落から浜への道を下りかけると、古びた自然石の碑があり、こう刻まれていた。
 『高き住居は児孫の和楽
  想へ惨禍の大津波
  此処より下に家を建てるな』」 
――以上、前掲書の同篇より部分的に引用。

 この地において、この石碑による伝承が活かされていたことを祈るのみです。
 住民の、文字通りの命綱となったローカルバス。今後も、重茂半島の人々の生活を支え続けていってほしいと願わずにはいられません。

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▲バスの起点である宮古駅前(2000年11月筆者撮影)

※なお、『ローカルバスの終点へ』は、1989年にJTB日本交通公社出版、1991年に新潮文庫により刊行され、その後絶版となっていましたが、2010年12月に洋泉社新書により復刊されました。本当の旅とは何か、を教えてくれる好著でもあります。

(第435号)

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コメント

今回の津波で、姉吉集落は無事であったという報道がありました。
3月30日付け読売新聞YOMIURI ONLINEの記事を引用のうえご紹介します。

「此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm

<引用はじめ>++++++++++++

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。

 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。

 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」

 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。

 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。(2011年3月30日07時22分 読売新聞)
++++++++++++<引用おわり>

投稿: 鉄まんアトム | 2011年3月31日 (木) 11時00分

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