それは本当に“できない”ことなのですか?
できる、という日本語にはたくさんの意味があります。男女の情愛までもが守備範囲の便利な言葉です。お役所や大企業における各種手続きやサービスにおいても使われているのですが、そこでは主に「できない」の形で安易に多用されているような気がしています。今回はここに光をあててみたいと思います。
ある手続きやサービスについて「できない」と言う場合は、それが実現不可能であることを意味しているはずです。
しかし、この「できない」の中で、本当にできないことは一体どれほどあるのでしょう。大抵のことは、本来できるはずのことを「していない」のか「やりたくない」のではないか、と疑ってみた方がいいと思います。タチの悪い輩が相手だと、己の無能を棚に上げ「知らない」ことも「できない」ことにしている可能性すらあるからです。前例がない、を持ち出してくる阿房もいます。
例えば、保険金請求。窃盗や風水害にあって家の火災保険の請求をするとしましょう。私には、電話連絡するや「今回のケースだとお支払いできかねます」と即答されたことが2回あります。が、「後学のために約款上の根拠を教えて下さい」と伝えたところ、2回とも最終的には保険金が支払われました。保険会社による不払いは社会問題にもなっています。
生活保護の申請をしても窓口で「できない」と断られ、そのまま命を落としてしまう人が後を絶ちません。これも本当に「できない」ことだったのか疑わしい事例が多く見受けられています。ほかにも事例は無数に存在します。
では、どう対処すればいいのでしょうか。私が実践しているのは、「どうして」「なんで」と根拠を尋ねることです。何事についても当てはまりますけど、とにかく「できない」と言われてもあきらめないこと、とくに理由の追究は大切なことです。あきらめた時点で道は閉ざされてしまいます(もちろん、最低限のことは、まず自分で調べるのが筋です)。
一例を挙げると、お役所で自分が「できる」と思うことを「できない」と言われた場合には、必ず法律上の根拠(具体的な条文や通達など)をお示し願っています。こうすることで、自分が不勉強で知らなかったことを知るきっかけになったり、そもそも「できない」ことではなかったりするからです(もっとも、まともに答えてくれる組織は少ないですが)。
現在の科学技術では自由な時間旅行や死者を生き返らせることなど「できない」、これには納得がいきます。しかし、作為不作為を問わず可能を不可能にしていることは世にたくさんあって、人間の作る法律や制度によって“できなくしてしまっているコト”はもちろん、憲法や法律によって本来できるようにしなければならない立場にありながら“できなくしてしまっているヒト”が現実に存在します。これには本当に納得がいきません。彼らの言う「できない」を、タイムマシンの「できない」と同列に扱うわけにはいきません。思考停止や職務怠慢と不可能とをすり替えてもらっては困るのです。
基本的に、できないことをできるようにしていく。社会の進歩や発展の鍵はここにあります。汗水たらしてこの逆の行動を取る人たちが力を持つようになってしまった社会が急速に衰退していくのは、自明のことです。「できない」ことだらけになってしまっている私たちの社会はいま、その真っ直中にあるのかも知れません。
それでも私は問い続けます。それは本当に“できない”ことなのですか? と。
(第379号)
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