« 公開質問状に対する日司連の回答 | トップページ | 誉桜満開風景2010 »

行政がこしらえる障害者の障害

 我が二男は、脳性麻痺による四肢体幹機能障害を抱える重度重複障害児。6歳を過ぎても、座る、立つ、歩く、話す、食べる、どれ一つとして満足にできません。いや、そのほとんどが全くできません。食事や水分補給は、主に鼻から胃までチューブを入れ、経腸栄養剤などを注入しています(いわゆる経管栄養)。
 私たち夫婦は共働き。日中は、市立の保育所で二男を預かってもらっています。保育所では、主治医の指示に基づき、看護師が経管栄養のためのチューブ挿抜を行っています。これにより私たちは、勤務時間を短縮しながらも仕事を続けられています。障害児を抱える親たちが就業するということは、社会的、経済的にはもちろん、親自身の精神衛生上もじつに有意義なことなのです。
          *          *          *
 その二男が来年度、学齢に達します。早めの準備が必要と思い、予約をして、県立の特別支援学校(従前の養護学校)にて就学の相談をしてきました。けれど、感想を一言で述べると、『絶望』。学校で聞かされたことは、耳を疑うことばかりでした。

 特別支援学校には、医療的ケアを必要とする子どものため、看護師資格のある教員が複数配置されています(この学校の場合、常勤2非常勤2の計4名)。しかし、その看護師によるケアは極めて限定的に運用されています。例えば、鼻からの経管栄養の場合、看護師に許されているのは、チューブの装着を確認しミルクや水分を容器に注入することだけ。『県のきまり』でそうなっているのだそうです。
 その『県のきまり』では、チューブ挿抜は例外なく保護者がしなければならず、何らかの事情でチューブが外れた場合には、その都度、保護者が学校に呼び出され、保護者が処置をしているのだそうです。抜け切らずチューブが宙ぶらりんの状態であっても、保護者が来るまで放置だとか。これのどこが「特別支援」なのでしょう。
 驚いたのは、この程度の医療的ケア(と呼べるのかも疑問)についてさえ、手順や方法を決めるのに半年もかかることです。主治医の指示だけでは済まず、4月に入学してから、看護師や教員と相談しながら、さらには校医及び相談医(月1しか学校には来ない)らの許可を得てからでないと実行できないのだとか。極めつけは、これが確定する9月頃までの間、保護者は、毎日、子どもと登下校をともにし、日中は学校内にて、ただひたすら待機していなければならない。これも『県のきまり』でそうなっているのだそうです。

 これでは、夫婦双方がいまの仕事を続けることはできません。学校の説明では、両親が仕事をしながら通っている子どもはいる、ということでしたが、詳細は「個人情報で教えられない」とのこと。放課後のいわゆる学童保育などは、情報すら絶無に近い状況でした。特別支援学校に学童保育の認識すらないことは、親たちが仕事をする環境にないことの裏返しです。それもそのはず、特別支援学校と両親の就業は、『県のきまり』ある限り両立しえないのですから、学童保育など必要もないわけです。
          *          *          *

 なんだか、目の前に突如、大きな大きな“ぬりかべ”が立ちはだかってしまいました。

 乗り越えようとする気力以上に壁の方が大きいと、急速にあきらめの感情が襲ってきます。介護を苦にした自殺や無理心中は、後を絶ちません。自死に至る心情は、理解を超えて共感を覚えることすらあります。
 自己責任や自助努力という妖怪を、「自立支援」とか「特別支援」とかいう錦の風呂敷で包みこんだような『県のきまり』。なんと、この『県のきまり』が書かれた紙すらも、保護者には『県のきまり』で渡せないそうです。憲法との適合が疑問に思えるような『県のきまり』でもって、社会との関わりを断つことを余儀なくされ、孤立を「特別支援」された親たちは一体どれほどいるのでしょう。障害者や障害者を抱える家族の障害の多くは、こうして行政が人為的にこしらえている不条理たる現実を、改めて思い知らされました。

 ちなみに、水木しげるの「図説日本妖怪大全」によると、“ぬりかべ”は気が動転したようなときに現れる妖怪。がむしゃらになったところで、なんとしても前には進めないのだとか。そこでどうしたかと言えば、「腰を下ろしてひと休みした」ら不思議と道は開けたのだそうです。とりあえず私も、一服してから、また前に進むとしましょう。

10/6/26追記
本記事で書いた『県のきまり』が、県担当者より手渡されました。詳細はこちらをご覧下さい。
県のきまり こと 埼玉県立特別支援学校医療的ケア体制整備事業実施要項(第361号)

*関連記事
150分の100分の2(第81号)
障害児の親縛る医療ケア体制(第338号)
障がい者制度改革推進会議が第一次意見書まとめる(第356号)

上田清司埼玉県知事の“罪”(第378号)
障害者施策における“合理的配慮”という視点(第417号)

*2010年4月17日脱稿(4月27日一般公開)

(第333号)

|

« 公開質問状に対する日司連の回答 | トップページ | 誉桜満開風景2010 »

コメント

こんばんは。
お子さんの件は広田さんが春から就学の準備をすると言っていらしたので気になっていました。読んでいてはがゆいことばかりです。

実は私も『県のきまり』という言葉に何度も翻弄されたことがあります。『前例がない』と言う言葉にも・・・。昔からの風習とか、決まっていることだからということがとても重んじられている県なんですよね。

医療従事者の私としては、この患者の立場に立てば『県のきまり』なんて優先すべきでないどうでも良いことだと思うのですが、ここに所属してしまったらその思いさえ言葉にすることが出来ないのでしょう。看護師という資格を持った教員はどのような気持ちで働いているのだろう・・・と同業者としては悲しくなります。

良い解決策が見つかることを祈っています。

投稿: aiai | 2010年4月20日 (火) 22時12分

 aiaiさん、こんにちは。
 プロの視点からのコメント、ありがとうございます。

 結局のところ、事故が起きたときの責任を恐れるあまり、県の責任回避を第一に考え『きまり』をつくっているのだと思います。一体何のための看護師配置か、という疑問を投げかけると、「これでも前よりは良くなったんです」という答えでした。こういうときだけは、すぐに前例が引用されます。
 『前例がない』――思うに、世の中の全ては「前例がない」のです。なぜならば、今を生きている誰もがみな、例外なく、前例のない、そして後例もない唯一無二の存在だからです。

 昔はこうだったとか、昔はこうではなかったということには、あまり意味がありません。今がどうであるかが大切で、『県のきまり』が今をおかしくしているのであれば、現在及び将来のために改善を求めていくしかありません。考えているだけで「良い解決策」が転がり込んでくることなど、まずないので。

 今後とも、見守っていただければ幸いです。

投稿: 鉄まんアトム | 2010年4月21日 (水) 18時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 行政がこしらえる障害者の障害:

« 公開質問状に対する日司連の回答 | トップページ | 誉桜満開風景2010 »