続・はるかな尾瀬
ヒツジグサについてわが家での認識は、蛙が乗っかっているアレね~(長男)とか、葉の形が羊の足跡みたいだからね~(妻)とか、せいぜいその程度。ヒツジグサの上に蛙が乗ったら沈むだろうと思っていたら、当ブログのプロフィールの背景は、なんと蛙とヒツジグサの組み合わせで驚いた。
その2人が、「父ちゃん~手と足のはえた大きなオタマジャクシがいるぅ~」と少し離れたところから大きな声で呼ぶ。寄ってみれば、イモリかサンショウウオだ(写真右)。ハイカーたちが笑っている。
家に戻り撮った写真をながめる。ヒツジグサの花が咲いていなくて残念との私の声に、「1つだけ咲いてたよ、気付かなかったの?」と妻。イモリはどうでもいいからそっちを教えろ、と遅れた気遣いにヒツジグサへの想いは高まるばかりである(ヒツジグサの名の由来は、前号「はるかな尾瀬」の末尾を参照。なお、上左の写真は、1998年7月に尾瀬で撮影したもの)。
<閑話休題>
尾瀬独特の風景をつくりだす湿原に点在する池塘の数々(尾瀬ヶ原上田代)
前号の題名にすえた「はるかな尾瀬」。尾瀬と聞けば思い出す、名曲『夏の思い出』の一節だ(♪夏が来れば~)。
「はるか」とは、辞書によれば、おもに時間的空間的または心理的に遠く隔たっているさまを表現する言葉だという。川越から尾瀬の麓・片品村戸倉まで片道150キロ、高速道路で2時間だ。時間的にも空間的にも、「はるか」とはいえまい。行きたいと思い続けているのだから、心理的な隔たりもない。
でも、わが家のような重度重複心身障害児のいる家庭にとっては、やはり「はるか」な存在だ。その主因は、木道が車いすに対応していないとかそういうことではない。自宅近くで、例えば保育所のような、障害児を安心して容易かつ気軽に預けられる仕組み=レスパイト=が機能していないといったことにある。
はるかさを思う前段に、あるべきではないのに社会にある“一段”、あるべきなのに社会にない“一段”がある。その一段を自力で乗り越え「はるか」を過去形にできることと、個人の力ではどうにもできず「はるか」であるさまが世の中にはある。「はるかな尾瀬」のテーマに私が込めたもう1つは、そういうさまなのだ。
尾瀬ヶ原へと向かう登山道も尾瀬の楽しみの一つである。心洗われる広葉樹の木々(鳩待峠~山の鼻)
(第238号)
*追加関連記事 続々・はるかな尾瀬(第248号)
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コメント
ヒツジグサはカエルグサではありません。ヒツジグサの上にカエルが乗っているのを見たこともありません。ヒツジの足跡も、たぶん違う形だと思います。
デジカメでヒツジグサの花をきれいに接写してこようと思っていましたけど、今回、それは叶いませんでした。まあ、また行く口実が残ったということで良しとしましょう。
ちなみに、花の接写は大の苦手分野です(微妙なピント合わせが要求されているのに、チョロチョロ動くんだもん)。
投稿: 鉄まんアトム | 2009年7月13日 (月) 10時20分