信濃路の終わりにある鉄道風景
国鉄時代は急行列車として活躍した165系電車。すでにJRからは完全に姿を消し、碓氷峠通過対策の施された169系12両のみが「しなの鉄道」(旧信越本線軽井沢-篠ノ井間)に残っていて、ほぼ原型を留めた状態で最後の走りを見せています。
2008年9月、信越本線軽井沢-関山間の開業120周年を記念して、1編成3両が「湘南色」と呼ばれる国鉄時代のオリジナル塗装に戻されました。その姿は、かつてこの区間を走った急行「信州」「妙高」を彷彿させてくれます。中央本線の「アルプス」も165系で、私より上の世代の岳人には懐かしの列車であり車両でしょう。いまはなき「大垣夜行」でもお馴染みでした。
雪の浅間山を背景にこの電車の写真を撮ってみたいと思いながら、これまでスケジュールと天候が噛み合わず実現しませんでした。たまたま3月15日は予定がなく天気予報も快晴を示していたので、花粉症でヨレヨレの身体に鞭を打ち、朝4時半起きで現地へと向かいました。雲1つない埼玉県内を走る関越自動車道から浅間山が頭をみせ、期待とヤル気は急上昇です。上信越自動車道の佐久平SICを降りるまでは、なにもかもが順調でした。
ところが、現地まであと数キロというあたりから、向かう先は鉛色の雲の中。浅間山の姿も見えません。それで現地に着いてみると、霧がかかっていて、なんと雪までちらついてきたから本当にがっかりです。仕方がないので、その場で様子を見ることにします。
写真を撮るチャンスはわずか2回、7時50分頃とその1時間後だけです。1回目は霧の中、列車はやってきてしまいました。それでも天気は回復の方向へ。少しずつ日差しが出て、徐々に霧も晴れてきました。2回目の30分ほど前には青空が広がり一面晴れ渡りました。しかし、肝心の浅間山の手前にだけ雲が流れています。浅間山を隠すかのごとく、どこからともなく次々雲が流れています。
結局、そのままの状態でラストチャンスとなってしまいました。そうして仕上がったのが、この微妙な作品です。
鉄道写真、とりわけ風景を主体に鉄道を点景とする写真がいかに大変か、あらためて実感します。晴れているのに列車が通り過ぎるその瞬間だけ雲がかかるのは序の口、お天道様の気まぐれに比べたら、女心の揺れうごきなど容易いものです(そちらも掴めた手応えは未だありませんけど)。そのうえ場所取りは熾烈を極め、寒いなか荒天のなかひたすら列車の通過を待ち続け、にもかかわらず直前の乱入者で台無しにされたり、機材の購入や維持には多額の経費と手間が…。コンデジ1つで撮影地に立つ「乗り鉄」の私には、なかなか付けいる隙間のない世界です。
なので、あとは駅に車を停め169系電車に乗ることにしました。小諸駅のホームには立ち食いそばが健在で、そこに国鉄色の国鉄型電車。これまた国鉄時代の鉄道風景です。懐かしさ一杯で電車の走りっぷりも往年の姿そのものですが、「国鉄」なんていう言葉も知らない同行の息子にとっては、このシーンが貴重だとわかるはずもなく退屈な時間だったようです。
ちなみに、ラストチャンスの列車が通過した10分ほどのち。問題の雲はどこかへ流れて浅間山の姿がハッキリ見えるようになりました。1本あとの列車は、こんな感じで撮影できました。
(115系と呼ばれる電車ですが、これも元は169系とほぼ同じ塗色でした)
余談ながら、このあたりは紀行作家・宮脇俊三が、旅情を誘うと特筆したところでもありました。
『特急電車は軽井沢への急勾配を苦もなく登って行く。左窓には浅間山の全姿が見えている。…(中略)…勾配を登りきると、浅間を背景にした信濃追分を通過する。信濃路の終りを告げるような駅名である。ひところ不動産業者がこのあたりを「西軽井沢」に改名しようとしたことがあった。ひやっとするような話であるが、住民の反対で実現しなかった。そう思ってみるせいか、高原野菜の畑のなかの農家の屋根が誇り高く見えてくる。もっとも、追分はいわゆる文化人の別荘の多いところで、その人たちの反対が強かったらしい。信濃追分のつぎは中軽井沢で、ここはもとの沓掛であるが、昭和三一年に改名されてしまった。』
~「最長片道切符の旅」、宮脇俊三著、1979年、新潮社~
『…駅名に関して言いたいことがある。それは駅名の改称についてである。信越本線の「沓掛」が「中軽井沢」に改称されたごときは最悪の例だ。…(中略)…ひところ「信濃追分」を「西軽井沢」に改称しようとの話がもちあがったことがある。信濃追分は私の愛してやまぬ駅名だから、愕然とし、改称反対のビラでもまきたい気持になったが、地元の人たちや別荘族の反対で沙汰やみになった。しかし、不動産業者は追分のつぎの御代田までをも「西軽井沢」と称して分譲しており、油断はならない。』
~「旅は自由席」、宮脇俊三著、1991年、新潮社~
かつての大幹線であった信越本線は、新幹線の開通により碓氷峠を越える横川-軽井沢間が廃止されるなど、分断されて姿を変えてしまいました。特急や急行も走らなくなりましたが、それでも今日まで、宮脇が愛した「信濃追分」と「御代田」の駅名はそのままに残っています。
そして、宮脇が旅をしていたあの時代の鉄道風景が、3月22日までのあと少しの間、ここでみることができます。
(第182号)
| 固定リンク
« 涙雨の東京駅にて | トップページ | サクラサク »
コメント