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鳥海山を臨むおばこ号~由利高原鉄道乗車記

 羽後矢島行四両のディーゼルカーは、接続よく10時37分に発車した。矢島線は羽後本荘-矢島間二三・〇キロ。はじめは広々とした田圃で、だんだん平地が狭くなるにつれて川の右岸や左岸を行くようになり、終着駅には木材が積んである、というローカル盲腸線の典型のような沿線風景であった。
 矢島は林業の町であるが、一万石ながら城下町で、秋田県でもっとも古い民家が残っているという。しかしディーゼルカーの停留時間は五分で、11時24分には折り返し発車する。
(ここまで、宮脇俊三著「時刻表2万キロ」の第8章より引用)

 宮脇俊三が矢島線を訪れたのは、1976(昭和51)年7月17日土曜日のこと。それから32年以上が経ち、宮脇がこの旅で上野を発った急行「津軽1号」はいまはなく、代役を務めるのは、宮脇が「朦朧とした名称のブルートレイン」と称した寝台特急「あけぼの」のみとなりました。「あけぼの」は、現在、東京と北東北とを結ぶ唯一孤高の夜行列車です(上越線・羽越本線経由)。
 「あけぼの」には、JR寝台列車の中で「最狭」ともいうべきP1000493B寝台個室が連結されています。直立できる場所はどこにもなく、何をするにも壁に身体をぶつけるほどの狭さです。そんな場所に同行者2人が入り込み、3人で日付が変わるまで晩酌を酌み交わしました。
 何もそこまでしていっしょに酒など飲まなくてもいいとは思いますが、これもまた旅行の楽しみで、旅立ちの儀式でもあるので欠かすことはできないものです。それでもほどほどにしないと、矢島に向かう乗継ぎ駅である羽後本荘を寝過ごしてしまうことになりかねません。羽後本荘には6時09分到着予定です。

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▲羽後本荘到着10分前の「あけぼの」の車窓

 翌朝、定刻羽後本荘着。30分前には目を覚まし、無事に下車しました。
 矢島行は7時02分発。「おばこ」と名付けられた2両のディーゼルカーは、6時31分に入線し暖房をつけて客待ちをしていました。
 天候に恵まれれば、線名になっている鳥海山(出羽富士)が車窓を飾るそうです。鳥海山は、標高2236mの独立峰で、東北地方では2番目に標高の高い山です。しかしこの日は、雷が鳴り響く時雨もよう。残念ながら、鳥海山を眺めることは叶いませんでした。
 終着の矢島は、3本の側線のある広い構内でしたが、木材が積まれている場所などありませんでした。その代わりに、駅舎は秋田杉をふんだんに使った立派なもの。朝も早く、天気も悪く、写真映りはよくありませんけど、私は、こういうデザインの駅は好きです。いつまでも、駅として末長く使われていってほしいと思います。
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▲(左から)由利高原鉄道の車窓(子吉川),矢島駅構内(手前の車両に描かれているのが鳥海山),矢島駅駅舎全景

 ここでこの鉄道について簡単におさらいしておきましょう。
 羽後本荘-矢島間の鉄道(旧国鉄矢島線)は、もとは本荘と横手を結ぶ目的の横荘鉄道によって1922(大正11)年に前郷まで開業。その後、国有化されたのちに1938(昭和13)年に羽後矢島まで延長された鉄道です。国鉄赤字ローカル線廃止対象の第1次路線(営業キロ30キロ未満で旅客輸送密度2,000人未満、及び同50キロで同500人未満の40線区)の1つに選定され廃線の危機に直面したものの、1985(昭和60)年、奇跡的ともいえる形で第三セクター化され、「由利高原鉄道鳥海山ろく線」として今日まで鉄路を維持しています。
 「'90最新・33社全収録第三セクター鉄道」(鉄道ジャーナル年鑑「日本の鉄道」別冊)によれば、「1982年7~10月には臨時列車を運行して状況を見たが利用の伸びは見られず、第三セクターへ向けての調査結果もかなりの赤字が見込まれるというものであった。また沿線へのアンケートでも矢島線を必要とする人の割合が少なく、県議会で出資について疑問が出されたこともあり、次第にバス転換の空気が強くなっていった。1984年(昭59)になって事態は急転する。それは弘南鉄道が同年初頭に矢島線引受けの意向を示したことによる。このことがキッカケで県でも『他県の業者にゆだねるよりは地元で』という空気が強まり、第三セクター案が再浮上することとなった。こうして再調査のすえ、1984年6月には県議会で弘南鉄道による経営は不適当との判断が下され、7月の第7回協議会で地元主体による第三セクターで矢島線を転換することがきまった」とされています。こんな時代にもKYの雰囲気で物事が決まっていたことを実感します。
 そんな同線は驚くことに当初黒字経営。でも、その後の利用客や沿線人口そのものの減少により、1992(平成4)年から収支は赤字に。利用客はピーク時から半減し、県の補助も2016(平成28)年度をもって打ち切られる方向で、再び存廃の危機に立たされています(MSN産経ニュース「停車場ストーリー」2008年9月23日付けより)。

 さて、話を元に戻して今日の予定をどうするか。すぐに折り返せば田沢湖に寄る時間が取れます。折り返しの列車は到着9分後に発車。その次は2時間後。どちらにするか悩むところです。雨の止む気配はなく、とても駅周辺をスナップできる状況ではありません。悩んでいるうちに、9分後の7時50分発の列車は出発してしまいました。
 駅前に出てバス停の時刻表を調べると、1時間後に羽後交通の路線バスがあって、数分後に矢島駅付近(なぜか駅前には寄ってくれない)を通過するバスのあることも分かりました。そのバスは、羽後本荘駅付近(こちらも駅前には寄ってくれない)を8時50分頃に通過するようです。このとおりにうまく行けば、9分後で折り返した列車が接続する羽後本荘8時57分発の秋田行き普通列車に乗れます。失敗すれば、次の羽越本線の列車は10時45分発。羽後本荘で2時間弱も待たなければなりません。本線とは名ばかりの状況です。
 宮脇俊三は、冒頭に引用した同じ章の中で、バスを乗り継ぎ、わずか15分の角館武家屋敷見物という芸当に打って出ています。「バスが遅れたりしたら、大切な矢島線に乗りそこなう危険があるけれど、こういうスリルはひとり旅ならではの魅力がある」と楽しみながらやっているのかと思う一方、駆け足で通り過ぎたことを後に後悔している記述もあります。そして、「バスの時刻は正確で……列車に乗ることができた。もっともバスの中では腕時計ばかり眺めて朝から神経を疲れさせたし、こういう軽業は一回成功するとつぎには失敗することが多いから、心せねばならない」と戒めています。Yurikougen
 私たちを乗せたバスは快調に飛ばして「本荘駅前角」に8時54分到着。駅までの数百メートルを走って何とか列車に間に合ったのでした。
 こうして、矢島には宮脇とたいして変わらぬ15分ほどの滞在しかできませんでした。いまとなっては矢島で2時間ぼぅーとしていてもよかったかな、とも思います。結局、「行っただけ」「乗っただけ」になってしまいましたから。
 でも、いつかまた、今度は晴れた日に矢島を目指し、汽車の車窓から鳥海山を眺めてみたいものです。廃線跡巡りにならぬよう、これからもずうっと「おばこ」号が走り続けますように。

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