ふるさと能登
私は,これまでの人生の大半を,川越及びその周辺で過ごしています。なかで川越は最も長く,幼少時の思い出からしても,私を育ててくれた「ふるさと」は川越だと思っています。
一方,私の両親はともに,生まれも育ちも石川県奥能登地方。それぞれの実家は4キロほどしか離れていません。その両親の間の子として,私も石川県で生まれました。戸籍の記載によれば,「石川県鳳至郡穴水町(※現・鳳珠郡穴水町)にて出生」とされています。しかし,私が生まれたあとすぐ両親は,石川県を離れ,東京世田谷を経て川越に移り住みます。そんな次第で私は,能登で暮らしたときの記憶は何もありませんが,「生まれは能登」という事実だけが一生ついて回ることになります。
いまでも親類縁者の大部分は石川県にいて,父母両家の墓も石川県にあります。それでも,両親は埼玉県内に家を構え,能登に戻る気配など微塵も見受けられません。両親がどのような経緯で石川県を離れたのかは,いまだ詳しく聞いたことがないのでよく分かりません。そんな両親も年に一度は墓参りの帰省をしていて,いっしょに連れられ能登に通っていた私は,いつの頃からか,「生まれ故郷」として能登を認識するようになります。
幼い頃は苦手だった能登の郷土料理。あじのすし(ひねずし又はなれずし,ともいう),なすの舟焼き,各種の漬け物類,こんかいわし,かぶらずし…。とにかく挙げたらキリがありません。いまの時季は何といっても「こけ」(※キノコをさす方言)ですね。齢を重ねるにつれ,みな大好物になってしまいました。これらを知ってしまったのは,ある意味において不幸かもしれません。墓参りは口実で,こうした料理食べたさで能登に帰るようなものです。
独特の郷土料理を受け継ぎ守るのは,能登の気風です。温かく素朴な人情味あふれる土地の人であり,厳しいながらも豊かな自然に育まれた風土であったり。「田の神」を家に迎え入れ,身振り手振り言葉をかけながら風呂やごちそうを振る舞う神事「あえのこと」に象徴されるもてなしのこころがそこにはあります。「能登はやさしや土までも」と詠まれる所以です。
最後に能登へ帰ったのが2006年4月。それからもう,2年半ほど遠ざかってしまいました。これほどの無沙汰をしたことはありません。家庭の事情,仕事の都合,いろいろと言い訳はあるのですが,なんといっても2005年3月の能登線廃止の影響が一番大きいかもしれません。
廃線となって汽車が走らなくなっただけでなく,線路は剥がされ,橋は崩され…,能登線は跡形もなく消されつつあります。それを現実に生で見てしまうことの恐怖のようなものがあって近づきたくないのかもしれません。鉄道の廃止で不便になり,それで足が遠のいたということではなく,私の能登の思い出と切っても切れない能登線のいまの姿をみるのがつらいということなのです。追い打ちをかけるように,震災にも見舞われました。
でも,廃線からもう3年以上が過ぎました。そろそろ気持ちを切り替える潮時でしょうか。唱歌「ふるさと」のメロディーを聴くと3番の詩(…♪志をはたして/いつの日にか帰らん/山は青き故郷/水は清き故郷…)が想起され,能登の風景が脳裏をかすめます。
結局,私にはふるさとが2つあるのです。生まれ故郷が能登であることは永久に不変です。こののち川越を離れることがあっても,川越がふるさとであり続けることもまた不変です。そして能登とのつながりがどんなに薄くなったとしても,「能登はやさしや土までも」の気質だけは不変でありたいものです。ならば,ふだん”鉄分”を補給するように,そろそろ”能登分”の補給もしないと。たとえいまや能登が鉄分ゼロ地帯になってしまっていても。
だって,ふるさと能登の長い歴史の中で汽車が走っていたのは,わずか40年ほどにすぎません。その束の間,その汽車に乗り,その汽車をながめ,その汽車を見送った日々が私にあったことも,これまた不変なのですから。
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この記事をもって,当ブログは通算して第100号を迎えました。
これまで不思議と,「能登」を主題にした記事は1つもありませんでした。そこで100号の節目に,能登のこと,私と能登の関係などを簡単に触れておくことにしました。機会があればまた,能登のいろいろ,とくになくなってしまった能登線のことを,少しずつでも取り上げていきたいと思っています。
(第100号)
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