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2008年9月の7件の記事

ふるさと能登

 私は,これまでの人生の大半を,川越及びその周辺で過ごしています。なかで川越は最も長く,幼少時の思い出からしても,私を育ててくれた「ふるさと」は川越だと思っています。
 一方,私の両親はともに,生まれも育ちも石川県奥能登地方。それぞれの実家は4キロほどしか離れていません。その両親の間の子として,私も石川県で生まれました。戸籍の記載によれば,「石川県鳳至郡穴水町(※現・鳳珠郡穴水町)にて出生」とされています。しかし,私が生まれたあとすぐ両親は,石川県を離れ,東京世田谷を経て川越に移り住みます。そんな次第で私は,能登で暮らしたときの記憶は何もありませんが,「生まれは能登」という事実だけが一生ついて回ることになります。
 いまでも親類縁者の大部分は石川県にいて,父母両家の墓も石川県にあります。それでも,両親は埼玉県内に家を構え,能登に戻る気配など微塵も見受けられません。両親がどのような経緯で石川県を離れたのかは,いまだ詳しく聞いたことがないのでよく分かりません。そんな両親も年に一度は墓参りの帰省をしていて,いっしょに連れられ能登に通っていた私は,いつの頃からか,「生まれ故郷」として能登を認識するようになります。

 幼い頃は苦手だった能登の郷土料理。あじのすし(ひねずし又はなれずし,ともいう),なすの舟焼き,各種の漬け物類,こんかいわし,かぶらずし…。とにかく挙げたらキリがありません。いまの時季は何といっても「こけ」(※キノコをさす方言)ですね。齢を重ねるにつれ,みな大好物になってしまいました。これらを知ってしまったのは,ある意味において不幸かもしれません。墓参りは口実で,こうした料理食べたさで能登に帰るようなものです。
 独特の郷土料理を受け継ぎ守るのは,能登の気風です。温かく素朴な人情味あふれる土地の人であり,厳しいながらも豊かな自然に育まれた風土であったり。「田の神」を家に迎え入れ,身振り手振り言葉をかけながら風呂やごちそうを振る舞う神事「あえのこと」に象徴されるもてなしのこころがそこにはあります。「能登はやさしや土までも」と詠まれる所以です。

 最後に能登へ帰ったのが2006年4月。それからもう,2年半ほど遠ざかってしまいました。これほどの無沙汰をしたことはありません。家庭の事情,仕事の都合,いろいろと言い訳はあるのですが,なんといっても2005年3月の能登線廃止の影響が一番大きいかもしれません。
 廃線となって汽車が走らなくなっただけでなく,線路は剥がされ,橋は崩され…,能登線は跡形もなく消されつつあります。それを現実に生で見てしまうことの恐怖のようなものがあって近づきたくないのかもしれません。鉄道の廃止で不便になり,それで足が遠のいたということではなく,私の能登の思い出と切っても切れない能登線のいまの姿をみるのがつらいということなのです。追い打ちをかけるように,震災にも見舞われました。
 でも,廃線からもう3年以上が過ぎました。そろそろ気持ちを切り替える潮時でしょうか。唱歌「ふるさと」のメロディーを聴くと3番の詩(…♪志をはたして/いつの日にか帰らん/山は青き故郷/水は清き故郷…)が想起され,能登の風景が脳裏をかすめます。

 結局,私にはふるさとが2つあるのです。生まれ故郷が能登であることは永久に不変です。こののち川越を離れることがあっても,川越がふるさとであり続けることもまた不変です。そして能登とのつながりがどんなに薄くなったとしても,「能登はやさしや土までも」の気質だけは不変でありたいものです。ならば,ふだん”鉄分”を補給するように,そろそろ”能登分”の補給もしないと。たとえいまや能登が鉄分ゼロ地帯になってしまっていても。
 だって,ふるさと能登の長い歴史の中で汽車が走っていたのは,わずか40年ほどにすぎません。その束の間,その汽車に乗り,その汽車をながめ,その汽車を見送った日々が私にあったことも,これまた不変なのですから。

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 この記事をもって,当ブログは通算して第100号を迎えました。
 これまで不思議と,「能登」を主題にした記事は1つもありませんでした。そこで100号の節目に,能登のこと,私と能登の関係などを簡単に触れておくことにしました。機会があればまた,能登のいろいろ,とくになくなってしまった能登線のことを,少しずつでも取り上げていきたいと思っています。

(第100号)

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因果応報

Ingaouhou 先日,旅先であったイヤなことの愚痴を友人にこぼしました。
 その友人は,仏教系の学校を出ていて,「因果応報」を説いて私を慰めてくれました。しかも,その応報とは,自分自身に留まらず,先祖代々子孫末裔,すなわち輪廻転生三界六道にわたって続いていて続くもの。過去から現在,そして未来への進行形。「自分一人のために生きているわけではないということの例え」であるという,じつに深い示唆を与えるものでした。
 すると,自分はどうか。
 自分が友人にしたような愚痴を話す別な誰かの原因当事者になってはいないだろうか。…まったくもって自信がありません。
 その友人曰く「同じものごとでも,それをどう捉えるかで人間の精神の価値は決まるのだということ…人生修行ですね。」と。余計なことは申しません。思い当たることが多すぎて,修行以前に,まずは日頃の反省から…です。

 ※写真は,「精選版日本国語大辞典」(小学館)より抜粋

(第99号)

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暮らしに役立つ法律講座

 9月22日午後,川越市女性会館において,市民の方を対象とする標記テーマの講座が開催され,その講師として2時間のお話しをしてきました。
 テーマは予め決まって依頼されたものの,話の内容は講師が自由に選んでよいということで,平凡ながら,相続や遺言,金銭の貸し借りなどを取り上げました。対象者が一般の方であることを意識して,断片的な法律知識の説明に加えて,法的なものの考え方や見方を随所に盛り込んでお話しをしました。この手の講座にありがちな,条文レベルの要件と効果の伝授に終始してしまうことを避けたかったからです。
 一般の方が法律の要件効果の知識を持つことは,けして無意味なことではありません。ないよりはあった方がいいに決まっています。しかし,そのような知識は法律や制度の改正で変わってしまうことがありますし,法律の条文や解説書を読めば,あとからいつでも容易に取り込むことができます。
 それに,法律というものは,断片的な知識を得ることによってタナボタ式で暮らしに「役立つ」という受け身のものではなく,自ら主体的に「役立たせる」ことによって,結果として暮らしに「役立つ」のだ,と私は思っているのです。
 では,どうしたら能動的に「役立たせる」ことができるというのでしょうか。
 それは,物事にあたって常に自らが法的に考えるよう心掛ける,要するにリーガルマインドを身につけるということに尽きます。まず,法的なものの考え方をすることによって,自然と法的思考力が身についていきます。つぎに,法的思考力が身についてくれば,必然的に法的な思考方法をとるようになり,それにより法的思考力はいっそう高められます。そうすることで物事の本質を見抜き,紛争を解決する最善の道を見いだすことができるようになります。またそうなれば,紛争になる前に,それを防ぐことだってできるようになるはずです。法律に関する具体的な知識は,ここではじめて生きてくるのです(詳しくは,以前に当ブログで「リーガルマインド」と題する記事(2008年5月23日付け)を書きましたので,そちらも併せてご参照下さい)。
 知識は記憶ですから,やがては消えてなくなるものです。うろおぼえの法律知識はかえって害悪です。また,記録に留めていても,法律は生きているものですから時間の経過とともに価値がなくなるものです。だけど,一度身につけたリーガルマインドは,その人の生涯にわたって役に立つだけでなく,それが広く社会に行き渡れば,法が支配する世の中の実現に繋がっていくものです。このように,リーガルマインドこそが,暮らしに役立つ法律,法律が暮らしに役立つための基本であり前提なのです。
 日本国憲法前文にある「日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」こと,すなわち憲法理念の実現への一歩は,ひとりひとりがリーガルマインドを理解するところから始まるといっても大げさではないでしょう。聴講された方に少しでもこの意義が伝わっていれば,私の拙い話によって費消された2時間も無駄にはなりません。

(第98号)

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上田電鉄別所線

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 3連休の前半、家族で出かけた帰り道、上田電鉄別所線(上田-別所温泉11.6km)に立ち寄ってきました。塩田平の田園地帯を小駅に停まりながら、30分足らずの各駅停車の旅です。沿線は、豊穣の田んぼにコスモスの色添え。秋の気配いっぱいの小旅行でした。
 終点の別所温泉は、日本武尊の神話にも出てくる歴史ある温泉で、共同湯も3カ所あります。駅前にある近代的な日帰り温泉施設「あいそめの湯」で風呂を楽しみ外に出ると、目の前を、乗ってみたかった「まるまどりーむ」号が通り過ぎていきました。

(第96号)

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宮脇俊三と鉄道紀行展

 世田谷文学館で開催されている「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」を見てきました。鉄道紀行作家・宮脇俊三(1926~2003)の業績を回顧する初の展覧会,ということで,長女宮脇灯子氏が監修した展覧会です。
 展覧会では,多くの著作の自筆原稿,無数の取材ノートをはじめとして,初公開となる多数の資料が展示されていました。「時刻表2万キロ」全線完乗地図や,広尾発枕崎ゆき「最長片道切符」の原本も展示され,途中下車印の押された実際のきっぷの券面を初めて目にすることができました(ちょっと感激)。
 中でも目を引いたのは,やはり肉筆の原稿類です。ていねいな筆致で原稿用紙のマスの中に几帳面に埋められた文字。印刷原稿に対しては,文字の大きさ,書体,改行位置,空白の取り方の指定はもちろん,挿図の線の太さ,色合いの指定に至るまで事細かくなされている指示。未開業路線の想像の時刻表は,方眼紙に細かい数字の一つまですべて手書きされ,市販の時刻表と見紛うものです。編集者であった宮脇は,著作に挿入する路線図や時刻表などを自作していましたが,もちろんパソコンのない時代で,何から何まですべて手書きです。自身の信条でもあった推敲の過程を示す原稿もあって,どれもじっくり見入ってしまいます。
 なんというか,とにかく全力投球の仕事。自分自身に対する妥協を許さない姿勢が伝わってきます。プロの仕事はかくあるべき,を実感しました。宮脇の作品が時を経ても色あせず,いまなお多くの人を魅了して止まないのは,こうした作り手の立ち居振る舞いが凝縮されているからなのでしょうか。心血注いで紡がれた文章を,いままで以上に大事に読み返していこうという心境になりました。
 ファンには必見の展覧会です。9月15日まで,残りわずかです。
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 写真は,JRの乗車券を模した入場券と展覧会のパンフレットです。パンフはA4横で短辺側で2つ折りになっています。開くと,なんと「時刻表2万キロ」全線完乗地図。ここまでくると,企画した人は”好きなヒト”に違いありません。
 売店では,悲しいかなカエルが目についてしまいました。東急旧5000系,通称青ガエルのストラップ。だからカエル登場なんでしょうけど,知らない人にはこのストラップとカエルの因果関係は不明のままだと思います。

(第95号)

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いい加減にしてよ

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 まるでタブロイド紙の見出しのようですが、朝日新聞の社会面です。
 今宵の仕事をほぼ終えた矢先、紙面構成を白紙に戻された編集者の素直な感想かもしれません。
 「私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」…へぇ~そうなんですか。すると、その発言、「あなたとは違うんです(!)」が致命的に余計でしたね。客観的に見ると、ものすごく主観的ですもの。こんなこと1つとっても、もういい加減にしてよ、に同感です。

(第94号)

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大垣夜行

 きょう9月1日の朝日新聞に、「大垣夜行 臨時列車に?」という見出しの記事がありました。JR東日本とJR東海が運転取りやめの方向で検討、毎夜運行は今年度末限りで廃止される見込みだそうです。
 「大垣夜行」というのは、いまでは東京-大垣間の夜行快速「ムーンライトながら」を指して使うのでしょう。新しいファンには「ながら」のほうが通りがいいかもしれませんが、私たち以上の年代には、やはり「大垣夜行」です。
 私の若者だった時代はまだ普通列車で、旧型の急行用車両(165系)が使われていました。座席を確保するために、何時間も前から東京駅のホームに並んだものです。苦労して席についてもほぼ直角の硬い座席で、寝ては起こされ寝ては起こされの旅路でした。いまの「ながら」とは比べものにならないほど苦痛な環境でしたが、友と過ごしたあの貴重な時間は忘れられません。「大垣夜行」という同じ列車での思い出は、多くの人にたくさんあるに違いありません。ただの鈍行なのに「大垣夜行」と呼ばれ、多くの人に愛されてきた列車。こういう列車って、もはや一つの文化だと私は思います。そんな文化がまた一つ消えていくのは、寂しい限りです。

 新幹線や飛行機、深夜バスに押され(という理由付けで)、長距離の夜行列車は年を追うごとに姿を消されています。東京駅を発つ夜行列車は、いまではたったの3本のみ。大分・熊本行きの「富士・はやぶさ」、高松・出雲市行きの「サンライズ瀬戸・サンライズ出雲」、そして大垣行きの「ムーンライトながら」の3つです。
 今年3月には、京都-熊本・長崎間の「なは・あかつき」、東京-大阪間の「銀河」が相次いで廃止され、来年には「富士・はやぶさ」も廃止されようとしています。そのうえ「ながら」も廃止されてしまうと、一気に選択肢が失われます。西への旅はつまらなくなっちゃうなあ…。
 飛行機に乗れない私は、遠距離への旅に必ずといっていいほど、行きも帰りも夜行列車を利用しています。こんな旅のスタイルを続けられる時間は、もう残り少ないのかもしれません。

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 1枚だけ古い写真がデジタルでありました!
 撮影日は明確ですが…たぶん多客期に増発されていた臨時「大垣夜行」だと思います。定期の「大垣夜行」より後に東京を出発する「臨時大垣行き」の方が、なぜか先に大垣に着くんですよね。

(第93号)

*追加関連記事
東京駅からブルートレインが消え去る日(第145号)
空を飛べないアトム(第168号)

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