四国遍路第7話(予土線)
~大正、昭和、そしてハゲ!?~
四国訪問の目的を果たし自由民権記念館をあとにした私たちは、路面電車で高知駅に向かいました。高架に切り替わったばかりの真新しい駅で昼食をとり、同行者とはここでお別れです。 ホームに上がると、木造のアーチ型天井が頭上を覆っています。覆いのある高架駅は息苦しさを感じるのですが、これだけ高くて大きいと一転、開放感があります。この大屋根は「くじらドーム」とよばれ、東西(長さ)60.9m、南北(幅)38.5m、高さ23.3mで駅全体をすっぽりと覆う構造で、高知県内24市町村で伐採された杉の原木は、長さ4mの丸太にして8千本にも及ぶといいます。ただ、あまりに大きすぎて、風雨の際の吹き込みを心配してしまうのは余計なお世話でしょうか、ね。
岡山行き特急「南風16号」で高松に向かう同行者を見送ったあと、私は、四国をさらに奥へと進むため、13時26分高知始発の特急「あしずり」中村行きを同じホームで立ちながら待つことにしました。
これから土讃線を西に進み、今日の宿泊地である宿毛に宇和島回りで行きます。「あしずり」で中村まで行き、宿毛線に乗り換えるより3時間以上も余計にかかり、宿毛到着は夜になります。さすがに同行者もこれ以上同行する気はなかったようです。
宮脇俊三の「最長片道切符の旅」に面白いやりとりが書かれていますので、紹介しておきましょう。
「一日じゅう汽車に乗っているのは……」
と王子さまが言う。突然だからぎょっとする。
「つまらないでしょう」
「いや、おもしろいです」
「……」
「山登りに似てます。山登りは歩いているときがおもしろいのです」
これは大議論に発展する可能性がある。
「それで?」
「それだけです」
最長片道切符の旅、といえば、いまは関口知宏の方を思い浮かべる人が多いのでしょうけど、宮脇俊三を知らずして語るべからず、ですよ。
さて、私といっしょにいた王子さまも去り、ここからは一人旅です。
高知を出発してすぐに地上へ下っていくと、今度は右へ左への急カーブが連続。両側に民家が建ち並ぶこの区間を、特急はジェットコースターのように進んでいきます。「…線路はS字型に曲がっている。…だから、それまで左窓に差していた日が佐川では右窓に移る。今度は右側の席の客がブラインドを下ろす。いったん車内が暗くなるので、おかしいと気がついた左側の客がブラインドを上げる」(前掲書)。時は移っても同じ光景が繰り広げられ、カーテンの開けたり閉めたりする音がひっきりなしでした。
佐川を過ぎると須崎で海に出て、つぎの土佐久礼あたりまでは土佐湾を眺めながら進みます。海が車窓から消えると、土讃線の終点窪川はもうまもなくです。
車窓から見える道路標識の進行方向が「四万十市・四万十町」となっていることに気付きました。四万十市は、2005年、中村市と幡多郡西土佐村が合併し誕生した市で、四万十町は、その翌年、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し誕生した町です。隣接していますが、窪川と中村は鉄道でも43キロも離れています。標識をよく見ると、さすがに小さな字で(旧中村)とか書かれていました。
窪川着14時27分。窪川は、それほど大きな町でもなさそうなのに土讃線という大幹線の終着駅になっています。何か理由がありそうです。 高知から西へ延びてきた土讃線が窪川まで開通したのは1951年。この先どうするかで一悶着することになります(今日の私のスケジュールの話ではありません)。で、結局のところ、土讃線の名称は窪川で打ち切り、中村方面は中村線、江川崎・宇和島方面は予土線として、1957年、両線を同時に着工することになりました。1970年に中村線が、1974年に予土線が全通しています。
中村線は、その後JRに引き継がれず、第三セクターの「土佐くろしお鉄道」に移管されました。しかし現在中村線には、高知・岡山方面に向けてJRに直通する特急が9往復も走っており、一方の予土線はJRとして残ったものの普通列車のみの運行で、それも1日6.5往復に過ぎません。
うまく折り合っていれば、土讃線の終着は中村でJRとして残っていたかもしれません。でもそうなると、中村から先の宿毛線はそれだけで誕生しえたか、という別の悲しい物語にも発展しそうなので、”たら・れば”はここで仕舞いにしておきましょう。
窪川ではわずか10分の乗り換え、宇和島行きは14時37分発。たったの1両です。 窓から下を今日の空の色を映したかのような青色で塗られた車両は、無風流なロングシートで10名前後の乗客を乗せていました。
窪川で中村線と予土線に分かれると書きましたが、正確には、窪川の1つとなりの若井、いやもっと正確には、そのさらに先にある川奥信号場で分岐しています(JTB時刻表2007年8月号から引用の地図及び右の写真を参照。予土線は左へ進みます)。
「窪川発16時11分の列車は二両連結で、座席のほとんどがふさがった。
予土線は伊予と土佐を結ぶ線で、列車は伊予の宇和島と土佐の窪川を着発駅としているが、正式の区間は若井-北宇和島間の七六・三キロとなっている。若井は窪川から中村へ向かう中村線の一つ目の駅であり、北宇和島は宇和島の一つ手前の駅で、ここで予讃本線と合流するからである。
だから窪川を発車した列車は、まず中村線の上を若井まで走り、そこから予土線の営業区間に入る。ところが、若井を発車しても線路は分岐せず、予土線の列車は相変わらず中村線の上を走りトンネルに入る。トンネルを抜けると川奥信号場があって、ここではじめて線路が分岐し、右に分れた中村線は下り勾配となってトンネルに入っていく。このトンネルは四国唯一のループ線で、車窓から見下ろすと中村線の線路が谷底に光っている。
若井-川奥信号場間は三・六キロある。したがって、その三・六キロの線路を中村線と予土線とがそれぞれ自分の営業キロに算入しているわけで、国鉄の営業キロなるものもずいぶんいい加減なところがある。」
(「最長片道切符の旅」p225、宮脇俊三著、新潮社、1979年)
予習不足につき、「谷底に光っている」という線路を見落としてしまいました。
列車はトンネルと鉄橋の連続で、快調な走りを見せます。土佐大正という駅に停まり、つぎが土佐昭和。残念ながら、明治や平成はありません。おもしろいと思っていると、「つぎはハゲ」。 周りを見回しましたが該当人物がいなくて、ホッとしました。当事者にはけしからぬ駅名に違いありません。
ハゲ、いや半家のつぎの江川崎に15時37分着。列車はここで19分停まります。列車内にトイレがなく、”決壊”に近づきつつあったので助かりました。
広い構内の駅ですが利用客はまばら。発車が近づき1人があらたに乗り込んだだけでした。対向列車との行き違いもなく15時56分発車。宇和島まではあと約1時間です。
江川崎を出ると列車のスピードは極端に落ち込みます。車窓に自分たちの走るレールが見えるくらいの急なカーブの連続でトロトロ蛇行。はじめて乗るローカル線では寝ないよう気をつけているのですが、さすがに睡魔がやってきました。少し寝ることにします。
目を覚ますと北宇和島の手前。それから1駅、17時03分宇和島到着。睡魔には負けましたが、四国の中でもっとも乗りづらい予土線を制覇しました。
今日の旅はまだ終わりません。
四国完乗の肝はここにあって、今日これから、宿毛に移動しておかなければその達成が難しくなるのです。
窪川で予土線と分かれた中村線は、中村から宿毛と城辺を経由して再び宇和島で合流する計画でしたが、宿毛から先は実現しませんでした。そのいわば”未成線”区間をバスで行くことにします。
宇和島駅前17時15分発宿毛駅行きバスは、室戸岬と同じ、これまたふつうの乗合ワンマンバスでした。ロングシートの予土線もつらいものがありましたが、それに続いてこのバスでの約2時間は、おしりに起こる異変に予めの覚悟が必要です。当然、トイレもありません。
宇和島駅を出てしばらく平凡な道を行くと、だんだん山あいとなり長いトンネルをくぐります。日も暮れてきました。トンネルを出てまたしばらく走ると静かな入り江が見えてきました。入り江になっている湾の入口の方に日が落ちるところで、もうきらきら輝くような光量はなく、空の上の方には紺青が広がり、それがだんだんと赤みを混ぜながら、空と海の境は薄灰桜色でつながっています。波穏やかな入り江では、小舟に乗って漁をしている人が黒で見え、その情景を美しいと思い首を横にして眺めました。
降りてカメラに収めたい衝動に駆られましたが、こういうものこそ目の奥にしまい込むほうがいいのでしょう。そうしました。
能登の夕焼けが日本一だと思っていましたけど、まさに井の中の蛙。宇和海の景色には惚れ込みました。予土線に乗って宿毛線にも乗れば、そうそうこのあたりの用事もなくなりますが、またこの夕暮れを見たいと私は思いました。
やがて窓の外が真っ黒になりました。海辺か山あいかの区別もつかず、過ぎ去る灯りも淋しくなり、これが本能というものか再び眠ってしまいました。
そのまま宿毛駅19時15分頃到着。宿まで歩くつもりでいましたが、駅にいたタクシーに乗り込みました。
(第8話へ続く)
(第41号)
| 固定リンク
コメント