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四国遍路第6話(高知市立自由民権記念館)

 ~自由は土佐の山間より~

 旅の良し悪しは、点と線の調和如何によって決まることが多い。
 ”乗りつぶし”は線の旅になりがちで、線だけの旅は、あとで印象の薄いものになってしまいます。そうかといって点をとり過ぎますと、アリバイ作りでもしているかのような味気ないバスツアーみたいで、それもいただけません。点を重視していますと、今度はいつまでも乗りつぶしが先に進まない事態になりかねません。ここの微妙な配分をどうするか、旅行前にはいつも時刻表と格闘することになるのです。
 しかし、日程立案者の力量不足のため、二兎を追う者…の図になることもしばしば。どちらかを犠牲にすると頭を使わずに済みますから、結局のところ、まんべんなく調和させることをあきらめてしまいます。
 今回は”線”を重視したために、日和佐薬王寺で厄を落とした以外、東京から長い線を引き続けてきました(第4話参照)。このあとも線が続きます(次話以降)。それでもまともな”点”がないと、家族への言い訳も立ちません。仮にその点が薬王寺であったら、私の帰る家はないかもしれません。
 そこですえた点とは、「高知市立自由民権記念館」です。もっとも今回は、最初にこの点をすえ、そこに線をあてはめたのですが。

 高知市立自由民権記念館は、高知市の市制Img_0616100周年を記念して建設されたもので、土佐の人が大きな役割を果たした自由民権運動を中心に、土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、次の世代に引き継ぐべく新たな100年へのシンボルとなるものです。自由民権運動と土佐の近代史の現代的意義が学べる歴史博物館でもあります。

 明治維新によって新しい国を作るにあたって、明治藩閥政府のめざす方向とは違う国家構想をめざす人々が起こしたのが自由民権運動です。憲法を作り議会を開こう、税金を安くしてほしい、言論や集会を自由な世の中にしようという呼びかけは、農民らも加わって全国に広がり、わが国で最初の国民的な民主主義運動になりました。
 自由民権運動期には、民間グループによる憲法私案(私擬憲法)もたくさん作られ、国民の権利保障に力点を置いたものでは、「五日市憲法」などがよく知られているところです。なかで、植木枝盛起草の「東洋大日本国々憲案」や北川貞彦起草の「日本憲法見込案」(いずれも高知出身)は、現行の「日本国憲法」に直接の影響を与えたとされています(後述)。
 しかし、自ら主導権をにぎって立憲政治を確立しようとしていた明治政府による徹底的な弾圧を受け、「秩父事件」に代表される激化事件、自由党解党を経て、民権派が求めていたものとはかけ離れた内容の大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)が発布されます。さらには、民権派である土佐出身の議員が議会で政府と妥協にまわった「土佐派の裏切り」や選挙大干渉事件によって、自由民権運動は急速に勢いを失い終末を迎えることになります。
 それでもその思想水脈は、大正デモクラシーを経て途切れることなく、やがて日本国憲法に結実されるのです。

 では、歴史をさかのぼってみてみましょう。
 現行の日本国憲法は、マッカーサー(連合国総司令部=GHQ=の最高司令官)草案に基づいています。これが、日本国憲法は占領軍に押しつけられたものだから、日本人自らの手による新しい憲法を作るべきである、と唱えるいわゆる”押しつけ憲法論”の根拠にもなっています。しかし、この押しつけ憲法論が、木を見て森を見ない論の典型であることは明らかです。少し詳しく見ていきましょう。
 マッカーサー草案は、1946年2月4日から13日までにGHQ統治局で草案の起草作業がなされ、ここで全体の方針や条文の具体的文言が討論され、決定されています。この討議では、GHQ統治局の運営委員であったラウエル中佐が1945年12月6日作成した、「日本の憲法の予備的研究と勧告」と題する報告書(いわゆるラウエル報告書)が基礎になったことがわかっています。
 一方、国内では、敗戦直後から民間でも憲法改正に向けた動きが活発化していました。ここで取り上げるのは「憲法研究会」です。戦前から戦中にかけて、思想的な弾圧を受けてきた知識人らが「憲法研究会」を結成、1945年11月5日、初めての会合を東京内幸町で開きました。
 それから12月26日までに6回の会合を開き、在野の憲法学者である鈴木安蔵が中心となり「憲法草案要綱」をまとめ、発表するのです。この草案は12月26日、GHQと政府にも提出され、12月28日、新聞各紙が草案の内容を報道、毎日新聞は全文を1面に掲載しています。
 憲法研究会の活動は、GHQもその動きをつかんでいたようで、1945年12月12日付けで、憲法研究会の草案の根本原則や国民権利義務の部分についてのラウエルによる英訳が残されています。ラウエルは、憲法研究会「憲法草案要綱」発表まもない1946年1月11日、GHQ統治局局長ホイットニー陸軍准将を通じて、米国太平洋陸軍参謀長サザーランド宛てに意見書を提出。その中で「憲法草案要綱」の諸条項について、その不備を指摘しながらも、「民主的で受け入れられる」と高く評価しています。
 弁護士でもあるラウエルは、戦前に米国内の図書館で、鈴木安蔵の著書を読んでいたとされ、鈴木の著書「現代憲政の諸問題」(1937年)の英文要約の文書を所持していたこともわかっています。

 「憲法草案要綱」全文が新聞各紙に掲載された翌日の1945年12月29日付け毎日新聞には、鈴木安蔵の話が掲載されています。この話はとても興味深いです。「憲法草案要綱」を起草した鈴木安蔵自ら、その参考としたものを語ったのですから。
 「別に共通の参考資料としたものはなく専ら同人の世界観に基づき技術的な仕上げは専門家に諮ることとしたが、資料の点で特にといはれゝば、明治15年(ママ、実際は同14年)に出た植木枝盛の『東洋大日本国国憲案』や土佐立志社の『日本憲法見込案』など日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして私擬憲法時代といはれる明治初期真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた20余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である」
 鈴木安蔵は1933年、死期まぢかに迫った大正デモクラシーを代表する思想家・吉野作造と面会し、多くの示唆を受けます。そして1936年5月30日、植木枝盛の史料を調査するため、高知市を訪れています。このとき、史料の収穫は得られなかったものの、鈴木は高知で、かつて自由民権運動に参加した人たちと会って、直接話を聞いたといわれています。それから4カ月して、植木枝盛の草案が高知で発見されるのです。
 植木の草案は、拷問や死刑の廃止を謳うなど人権保障規定が厚く、もっとも民主的な憲法案とされています(ただ、全体としてみると、自由制限条項もあって大日本帝国憲法との類似性も多い。軍を統御する民主的な方法の規定もない。「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハサルコトヲ得」という抵抗権(第70条)や、「政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」という革命権(第72条)などが先進的であるとする一方、むしろ内乱を誘発する懸念があるという批判もあることは付言しておく必要があります)。
 鈴木安蔵が最初に書いた憲法草案には、植木の草案にある革命権がありました。「政府憲法ニ背キ国民ノ自由ヲ抑圧シ権利ヲ毀損スルトキハ国民之ヲ変更スルコトヲ得」と。鈴木が植木の影響を受けていたことは間違いありません。
 こうしてみると、鈴木安蔵のそれまでの研究や蓄積が濃密に反映されたのが「憲法草案要綱」であり、鈴木の思想はラウエルらを通じてGHQに伝わり、それがマッカーサー草案の基礎となって日本国憲法に影響を与えたことがわかります。
 自由民権運動→植木枝盛による憲法草案→吉野作造の「民本主義」や憲法史研究・大正デモクラシー→鈴木安蔵起草の「憲法草案要綱」→ラウエル報告→マッカーサー草案→日本国憲法、という大きな流れが浮かび上がってくるのです。
 日本国憲法は、まさに日本人の手による日本人の憲法です。自由民権運動を水源とする地下水脈を、たまたまアメリカ人が掘り起こしたということではないでしょうか。
 高知市立自由民権記念館には、この水源や地下水脈の”線”があり、史資料という”点”を見ることができるのです。自由民権運動が現行「日本国憲法」に影響を与えたとするなら、その現代的意義は極めて大きく、わたしたちは、もっともっとこういう近代史を学んでいかなければなりません。これらの歴史の一部に過ぎませんが、映画「日本の青空」の果たしている意義の大きさも再認識しました。高知に来た価値は十分です。

 「自由は土佐の山間より出づ」。
 冒頭にも書いたこの言葉は、1877年の立志社機関誌「海南新誌」創刊号の巻頭言に植木枝盛が書いたもので、いまの「高知県詞」だそうです。

 最後に、内閣に設置された憲法調査会による1964年7月3日付け「憲法調査会報告書」の付属文書第2号「憲法制定の経過に関する小委員会報告書」に、「総司令部案の成立」という章があり「憲法研究会案の影響」の項がある(前掲報告書p308)ので、引用して終わりにします。
 「総司令部案の起草過程においては、松本案を初めとして日本側の憲法改正諸案はほとんど影響を与えていないというべきであるが、ただ憲法研究会案のみは総司令部案の起草者によって相当に重要視され参照された。…(中略)…総司令部案の起草者の一人であったラウエルがこの案をきわめて重視し、注意深く研究したうえで、その各条項について彼の意見を加えたものをホイットニーに提出したこと、そしてこの彼の意見が総司令部案にほとんどすべて取り入れられていることが明らかである。」
 ちなみに、この「憲法研究会案」が鈴木安蔵起草の「憲法草案要綱」であることも明記されていまImg_1004す。

 (第7話へ続く)

*参考文献
「植木枝盛の生涯」外崎光広著、高知市文化振興事業団、1997年
「日本国憲法制定の系譜第3巻」原秀成著、日本評論社、2006年
「日本国憲法制定の系譜第1巻」原秀成著、日本評論社、2004年
「日本国憲法誕生-知られざる舞台裏」塩田純著、NHK出版、2008年
「高知市立自由民権記念館常設展示の案内(増補改訂版)」高知市立自由民権記念館編、2005年
「映画日本の青空公式プログラム」日本の青空製作委員会編、2007年
「ブリタニカ国際大百科事典(小項目電子辞書版)」2005年
「憲法制定の経過に関する小委員会報告書」憲法調査会事務局、1961年(国立国会図書館所蔵)
「憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第 2号)」衆議院憲法調査会事務局、2000年

(第40号)

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コメント

「高知市立自由民権記念館」が家族への言い訳になるなんて、奥様は、なんてすばらしい方なんでしょう!
私にとっては、立派な言い訳にはならないでしょう(^^;)

投稿: yuko | 2008年3月16日 (日) 20時12分

言い訳は、立派でないほうがいいのです。ウソっぽく怪しくなりますから。
毎度、点も、線も、予め説明し承認を受けています(^^)。なんの問題もありません。
妻のことを褒めたりすると、そっちのほうが怪しくなってしまいます(゚_゚;)
yukoさんも、高知市立自由民権記念館に行くといえば、楽しい四国旅行ができますよ、たぶん(なんといっても線が長い!)。
もちろん、帰ってきたらレポート提出は必須です。

投稿: 鉄まんアトム | 2008年3月16日 (日) 20時43分

本記事で紹介した資料の一部は,国立国会図書館HPの電子展示会コーナー「日本国憲法の誕生」でみることができます。http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

投稿: 鉄まんアトム | 2008年3月16日 (日) 23時48分

 この自由民権記念館の順路をたどっていくと、最後の方で、つぎのコトバを突きつけられるのです。

 未来が其の胸中に在る者、之を青年と云ふ
 (植木枝盛の遺稿である「無天雑録」所収)

 「青年」でない者が、”青年”を騙っている例は世にたくさんありますけど…。

 自由民権記念館の旅はつぎの解説で締めくくられます。
 「自由民権運動はまさに近代日本の青春であった。しかし青春の理想はついに実現しなかった。その後の日本は軍事強国への道を歩み、アジアの国々を侵略して甚大な被害を与えた。そして敗戦によって再び新しい時代が到来し、民権派の憲法草案が生かされた日本国憲法が誕生した。自由民権運動がめざした民主主義日本の実現は日本国憲法の理念であり、私たちの理想でもある。自由民権運動は歴史に学び歴史を想像するために、豊かで貴重な経験を残している。」

投稿: 鉄まんアトム | 2008年3月17日 (月) 12時05分

 入手可能な「無天雑録」を取り寄せました。
 3月17日にコメントしたコトバは、第4巻下冊のなかの明治22(1889)年2月18日の日記として書かれており、その日の部分は全部で次のとおりです。なお、改行を▼で示します。

「今日為すことを一月後の利害を以て為す今月為すことを一年後の利害を以て為す今年為すことを十年後の利害を以て為す▼老年の胸中に過去の世界あり青年の胸中に未来の世界あり▼未来が其の胸中に在る者之を青年と云ふ過去が其の胸中に在る者之を老年と云ふ」

 「無天雑録」全4巻5冊の原本は、高知市民図書館に所蔵。
 上記引用は、「植木枝盛・無天雑録」p300、家永三郎、外崎光広編、法政大学出版局、1974年から。
 文語体が多く読むのは大変そうですが、一読の価値がありそうです。

投稿: 鉄まんアトム | 2008年3月19日 (水) 12時01分

 本文中に「憲法制定の経過に関する小委員会報告書」から引用した箇所がありますが、記載に誤りがありましたので訂正しました。
 また、掲げた参考文献一覧にも漏れていましたので追記しました。

投稿: 鉄まんアトム | 2008年4月 2日 (水) 13時01分

ずいぶん遅いコメントになっちゃいました。
第6話まで(第7話途中までか?)ご一緒させていただきました”非鉄”ヤッジーです。
楽しく,実りある研修?でしたね。21年+30年とか,17年+21年とか,算数のお勉強もしましたね。行き帰りとも重い教科書でしたよ。
持ち帰った30年は,10周年記念+マラソン慰労会で封をあけました。

投稿: ヤッジー | 2008年4月11日 (金) 20時17分

四国の東半周をしておいて”非鉄”はないでしょう(^^)
しかも、大歩危小歩危のオススメ車窓アドバイスまでできるんですから。
もちろん、坪尻駅(「鉄子の旅」第2集第16旅参照)は目視しましたよね。

ポヵ-ン(#´゚Д゚)づΩポヵ-ン

見逃していたら、もう1度行って来ないとダメです。ホントは降りないといけないんだから、最低でも見てはおかないとね。あ~あぁ降りたかったなぁ…。
何だったら、またごいっしょしますか。坪尻にて30年で一杯やったら最高ですよ、たぶん。
そのときはまた、新しい”教科書”でお願いしますm(__)m

投稿: 鉄まんアトム | 2008年4月14日 (月) 15時54分

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